2021/8/10。【極真空手】【我が師】【黒澤浩樹先生との思い出】【金久保典幸】

午前中は、病院2箇所へ治療に。

2週間ぶりに、両膝にヒアルロン酸注射を。

打った瞬間から、凄い違いを実感しつつ。

滑らかさが増して、ギスギスした痛みが急に消える。

忙しかったり、タイミングを逃すと、たまに空いてしまうんだけど、2度目の膝の手術以降は、かれこれ7年くらいは、出来るだけ毎週欠かさずに、ヒアルロン酸注射を打つ様にしている。

25歳の頃、膝の半月板を摘出手術をした後に、2度目の手術となった38歳の頃には、それまで◯膝の半月板が無い状態で、長年を現役選手としての稽古とトレーニングで酷使してきた為、◯大腿骨、◯脛の骨が上下ともに状態が痛み過ぎて壊死していると、MRI検査での診断結果を伝えられた。

医師からは、既に70代後半の老人くらいに、◯脚の上下の骨が壊死して摩耗していると言われた。

筋肉と筋力で支えているだけだから、人工プレートを入れる手術をするかを聞かれたが、それをすると、一ヶ月間は動けずにベッドに寝たままの入院で、リハビリには半年以上は掛かり、その後の運動は、ゲートボールくらいしか出来なくなると外科の医師に言われて、失笑してしまった記憶がある。

【38歳にして、俺はお爺ちゃんかよ…ゲートボール?】って、思い、痛みと付き合って行きながらでも、全然構わないから、内視鏡手術で取り敢えず、綺麗に整えるだけで大丈夫だとして、2度目の手術をした記憶があるが。

【今後は、サンドバッグも蹴れなくなり、ゲートボールは流石にないべ…】と、四十路を前に選択を迫られた過去がある。

あの時、人工プレートを入れる手術をしていたら、今頃、何して生きてたんだろうか。

それより以前に死に掛けた事のある、31歳の頃の度重なる、カテーテル手術の時には、【空手なんて一生涯、今後は無理ですよ、一生薬漬けの生活にはなります】と、医師から言われた事もあって、今に至る訳だから、運と自分の意思だけで継続してきた事実はあるから、結局、何事も自分自身が決めて行動する物でしかないから、当時、2回も命を救って下さった主治医の先生からは、【死ぬかも知れませんが、まあ、自己責任という事で】と呆れられてはいたが、それ以降に試合をした全日本大会のDVDを見てくれたり、驚きながらも笑顔で応援もしてくれた。(復帰後の第40回全日本大会では、ロシア王者のイゴール・ティトゥコフ選手と再延長まで戦い、最初の延長戦で、肋骨を2本折られたまま最後まで戦い抜いた試合だった)

実際には言っても聞かないから、主治医の先生も忙しくて相手にしていなかっただけなのかもだけど。

俺は昔から、お医者さんの言う事をきちんと守った試しが無い。

23歳の時には左拳が折れて、長いボルトを2本入れる手術をした翌日には、ジムに行き、左腕を頭より高く持ち上げながら、反対側の腕を念入りにウエイトトレーニングしていた。(腕を下げると血液が下り物凄い激痛だった為、心臓より上に上げていなければ、とても耐えられない痛みだった為)

腕とは関係の無い為、レッグプレスや、スクワットは通常通りに当然行っていた。

結局、ボルトを入れたまま、片腕をギプスで固めたまま日が経つ毎に、バチバチにサンドバッグは叩くわ、組手はするわで、本来であれば3、4週間で抜くはずのボルトは、幾らレントゲンを撮っても、なかなか骨が綺麗に繋がらずに、実際に2本のボルトを抜いたのは、それから4ヶ月後ではあった。(結局、どこの筋力も衰えてもいなかったし、折れた左拳の骨は、それまでよりも一回り太さを増していた)

この手術をした時には、黒澤先生からは本当に沢山のアドバイスと指導をして頂いた。(大きな大会への出場は、約1年間を見送った)

怪我をしてきた数日後に、めっちゃ叱られるのを覚悟して緊張しながらも道場稽古に行き、黒澤先生に会った時には、かなり意外にも満面の笑顔を見せて下さり、その怪我の経緯を事細かく黒澤先生からは聞かれた。

興味津々に本当に細かく聞いて下さり、相槌を入れながら笑って下さった。

この頃には、先生の優しい部分をよく知り、だけども日頃から神様の様に崇拝していた為、常に緊張はしながらも稽古に行けば、先生からは常に可愛がられていた。

ただ、そうは言っても、めっちゃ厳しい先生ではあり、稽古の時にはその場にいる誰もが凍り付く様な緊張感を感じ、言葉では簡単に表せられない威厳を放たれていたのが黒澤浩樹先生だった。

【極真史上最強の空手家】【格闘機械・ファイティングマシン】と言われた、偉大な格闘家であり、最後まで壮絶な生き方を全うされた師であり、本当に物凄くカッコよくて、自分自身の人生を大きく左右する程に影響を受けたのも事実だと思う。

黒澤先生からは、本当に多くの貴重な財産というか、人生での自分自身の在り方を教えて頂いたと、年齢を重ねる毎に、日が経つ毎に、その事の重みと有り難さを染み染みと理解する事が出来る。

先生は、2017年3月25日に亡くなられたが、黒澤先生と出会った19歳の頃から、今も自分自身の心の中には常に黒澤先生がいるし、これからも本当に変わらないと思う。

やれるうちは、試合場でまだまだ戦う事を考えて毎日を生きている。

何か無いうちは、やれる限りは50歳までは絶対に一般選手権でやる。

金久保典幸

2021/8/10