オレグ・ルクヤネンコ選手との試合。

第21回全日本ウエイト制大会重量級にて対戦したオレグ・ルクヤネンコ選手について書きます。

2メートル115キロの巨人ロシア選手です。

自分は、全日本ウエイト制大会には毎年、軽重量級にエントリーしていますが、20回、21回大会は重量級に出場しました。

重量級は文字通り、180センチ以上、100キロ級の猛者がゴロゴロとエントリーしていますが自分はあえて重量級にエントリーしました。

巨漢選手達と、打ち合いたかったのと実際、やり合う自信がありました。
全日本ウエイト制に関しては、軽い階級だから勝てるというような甘い物ではなく、どの階級に どの選手が出ても勝つには全て同じくらいに大変だと思いますし、当時から理解はしていました。

自分の身長、体重で大きな相手と真っ向勝負をする。

幼い少年時代から漠然と夢に抱いていました。

自分は当時、21回ウエイト制を迎える前年の秋に無差別で行われた、第11回全関東大会にて優勝しました。

決勝戦では、後に世界大会日本代表となる阿曽健太郎選手との二度目の対戦で、死に物狂いで優勝を勝ちとり、年明け一発目の試合が21回ウエイト制大会でした。

調子が良い時期でしたし伸びていましたし、勢いもあったかと思います。
試合1ヶ月前にトーナメントが決まり、対戦相手を見ました。

…2メートル115キロのロシア人…

その日は 緊張と不安で 稽古も ちぐはぐだったのを覚えています。(笑)

当時、ロシア選手は今ほど日本の大会に出場していない時期で、第8回世界大会で準優勝したロシアの、セルゲイ・プレカノフ選手の印象がありました。

強豪日本人選手をバタバタとKOしていたイメージがあり、同時にレチ・クルバノフ選手が台頭してきた時期でしたからロシア選手への恐怖感が今よりも全然ありましたし、今ほどロシア人の情報がない時期でした。

あんな後ろ廻し蹴りやパンチを俺が耐えられるのだろうか…

不安と緊張がある中、1ヶ月を過ごしました。
今の自分ならオレグ選手との対戦が決まっても 何のプレッシャーもなくきちんと準備をして試合に望めると思います。

オレグ選手との試合は、ロシア選手との初の対戦になりました。

しかも巨人… 国を代表して、わざわざ日本へ来るロシア選手が弱い訳がない…

警戒しましたが 試合後の人生を考えなくていいんだ、というくらいに、その試合に懸ける事が出来ました。

隠れてアップをするロシア陣営を探して、身体を動かす彼の姿を観て、『…大きい』と思いました。

シャドーを観た時には予想していた動きに近かったので イメージ通りでした。

お互い、初戦を勝ち抜き、遂に戦いの舞台に上がる瞬間、1ヶ月間の恐怖感が嘘のように無くなり、心身共に充実して何故か妙に落ち着いていました。

極真の全関東王者としてロシア人を絶対止める、絶対俺が勝つ!!と心に誓い、舞台に上がりました。

作戦等なく、気合いを入れながら、玉砕覚悟の特攻隊のように突っ込みました。

懐に入り 死に物狂いで叩き、蹴りました。

激しく打ち合いました。
桁外れのパワーがありました。

身体の大きさ、骨格、こんなに強い下段廻し蹴りがあるのか、というような鉄柱を振り下ろすかのような下段廻し蹴りを10発以上まともに貰いましたが、パンチを合わせながら必死に耐えました。

自分が胸を叩いて打ち合う度に会場が湧いているのが分かりました。

左下突きを まともに貰った時には落とされそうになりました。

倒れてしまった方がどれだけ楽かと思いましたが 諦める気持ちは毛頭ありませんでした。

自分の攻撃を嫌な顔をしてさがる場面もあり、勝てる!と思いましたが、本戦が終わった瞬間『…延長に入ったら、もう無理かも知れない』と瞬間、考えた程に、自分もボディが効いていましたが、おそらく自分は諦めないだろうなという厄介な自分が横から出てきました。

…結果は判定負け。

精一杯真っ向勝負をして気持ち良く負けたのだから仕方ないと思いました。

握手をする時にオレグ選手が抱き締めてくれましたが、彼の胸辺りに顔を埋めながら、俺も小さいけど、デカ過ぎだろ、と思いながらも、小さな少年になった気分でした。(笑)

壇上を降りると、ある先輩が涙を浮かべて頷いてくれていました。

気持ち的にはスッキリしていました。

自分以外の日本人選手はオレグ選手に皆KOされました。

翌年から、秋の無差別全日本大会を2連覇する事になる内田選手も準決勝で、下段で簡単に倒されてしまっていました。

結果は、オレグ選手は3位でしたが表彰台は全て外国人選手達が独占する大会となりました。

オレグ選手との試合があったからこそ後に、ダルメン選手や、カパナーゼ選手、タリエル・ニコラシビリ選手等、ロシアのトップ選手達と戦う事になっても、今では抵抗がなくなりました。

ロシア選手達には勝ったり負けたりですが、それ以後、何故か彼らと対戦する機会が多くなりました。

思い出の試合です。