フェドシーフ・アレクセイ選手と試合をして。
48歳の今の自分自身が、可能な限り命掛けで戦えた事。
分かる人達にだけ、その意味を知ってもらえたら本当にそれで良いなって。
そんな気持ち。
金久保典幸
2024/6/29
I.K.O KYOKUSHINKAIKAN JOSAISETAGAYA BRANCH HIGASHIYAMATO DOJO
フェドシーフ・アレクセイ選手と試合をして。
48歳の今の自分自身が、可能な限り命掛けで戦えた事。
分かる人達にだけ、その意味を知ってもらえたら本当にそれで良いなって。
そんな気持ち。
金久保典幸
2024/6/29
現在37歳のゴデルジ・カパナーゼ選手と、47歳の自分。
7年ぶりに会話をした。
言葉に表せられない深い気持ちで、彼と英語で話をした。
カパナーゼ選手とは、2005年と、2016年と2度、戦った。
本当に命懸けで戦えたと自負している。
格闘技である、極真空手の戦いの真髄を感じる事が出来た事。
彼の事を人一倍、二倍、三倍以上の気持ちで理解をしている。
崇拝している偉大な選手であり、極真空手で、彼と幾度も戦えた事を人生の宝としている。
自分自身が生きている間に、彼と一緒に写真を撮ろうと初めて考えた。
2023/11/17
東京体育館にて。(2022/11/20)
【極真会館/ 第54回全日本空手道選手権大会】の観戦と応援に来てくれていた、東大和道場の生徒達。
実際には少年部、中高生の生徒達だけでも20名以上は来ていたと思う。
更には一般部クラスと、東大和道場関係者の大人の方々20名程が会場に足を運んで下さった。
大会終了後に、永吉美優さんと、多田将太朗君と。
この時、既に夜の20時近くになっていた。
多田君と、三軒茶屋道場の青木さんが、いつもの如く、ホテルでの朝のアップを含めて、付きっきりでサポートとセコンドをしてくれた。
極真会館の大看板でもある、重量級世界王者の荒田昇毅選手と全力で戦えた事を本当に嬉しく思う。
トーナメントが決まり35日間を、彼の事を毎日ひたすら考えて過ごす事が出来た。
これまで長く積み重ねてきたからこそ、このタイミングで、極真会館の荒田昇毅選手と戦える時が来た事を本当に有り難く思いながら、試合当日を迎える事が出来た。
試合後には荒田選手が、金久保の控室に挨拶に来てくれた事。
彼と二人きりで会話をしながら、互いの気持ちを伝え話せた事を本当に嬉しく思う。
試合も勿論だが、ああいう瞬間は一生忘れる事はないなと染み染み思い、熱い物が込み上げていた。
大会後の支部終礼解散後の夜8時頃、東京体育館入り口に佐野先生の姿が…
【佐野先生がいます!】と、前を歩いていた多田君が気付いて知らせてくれた。
【ああ、佐野先生、また待ってくれていたんですか!?しかも雨が降ってる中…】と俺が佐野先生へ。
【あー、来た来た!いやー、良い試合だった!なんだか安心した!どうしても会って(金久保に)伝えたかったから!】と佐野先生から。
2016年に行われた【第48回全日本空手道選手権大会】でのロシアの、ゴデルジ・カパナーゼ選手との2度目となる試合を戦い終えた時の様子が、同じ場所で少しフラッシュバックした。
その後、いつもの如く多田君に、あーでもないこーでもない言いながら、千駄ヶ谷駅から電車に乗った。
多くの物事に感謝の気持ちを忘れない事。
人生の中での貴重な財産となる一日だった。
2022/11/20
2022/5/29
先日の群馬県大会が行われた群馬総合スポーツセンターの真横に並ぶ【群馬アリーナ】
あまりにも懐かしくなり…
【将太朗、アリーナの中、見てみ…スゲー立派だから…】と、帰り掛けに多田君と二人で立ち寄り、アリーナ内を覗いて当時の思い出を話した。
サッカークラブか何かの、沢山の幼い子供達が集まって競技をしていた為、アリーナ内での写真は撮らなかったけど、物凄く懐かしさが込み上げた。
群馬アリーナは、18年前の【2004第12回全関東空手道選手権大会】を戦った場所であり。
当時の全関東大会は一般選手権大会のみが開催されていた。
5試合を戦い、真っ赤な血尿を流した試合を思い出しながら。
巨大なアリーナ内は、東京体育館くらいはあると思う。
当時、まだ28歳だった。
(毛)も、まだあった。
毛の回顧録の結末を記したかった訳じゃないんだけど、全てが大事な思い出の一部として。
あれから18年が経過した…
現在46歳、まだ試合場で戦いたく、まだ踠きながら毎日を生きている。
2022/5/30
振り返り、経緯を文章に纏める自信が今はないし、今後も出来ないかも知れないけど、一応①としておこうと考えた。
大まかに簡単に纏めておこうと思う。
そのくらいに、簡単に語りようがないくらいに思い出深い大会だったから…
前日から試合当日には大きな台風があり、気分も鬱々としながらも、三茶の田村先輩と一緒に試合当日を迎えた事、大雨の中、先輩やセコンドと一緒にタクシーで、群馬アリーナへと向かった思い出。
物凄く大きな、立派な試合会場だった。
群馬県に前日入りし、試合前夜も田村先輩と一緒に食事をして士気を高めた。
田村先輩は当時の三茶の選手クラスでは、共に稽古を積ませて頂いていた先輩の一人であり、漢気のある熱い先輩として先輩後輩から慕われていた。
結果、共に5試合を戦い抜いた。
金久保自身の準決勝戦では、前年の【第8回全世界大会】日本代表の井野選手と戦い、延長戦3回の末にその試合を勝利した。(本戦0-0、延長戦0-0、最延長戦0-0、最終延長戦4-1)
井野選手との準決勝後にトイレに行くと、本当に真っ赤な鮮血の血尿が出た。
尿が全て真っ赤な血。
準決勝戦後、決勝戦に向けて、近藤先輩からのアドバイスを受けた時の様子。
この大会でのセコンドには、三茶の近藤先生、里山先生、後輩の稲葉さん、網谷君が付いてくれた。
前年の決勝戦に続き、この大会も阿曽選手との決勝戦となり。
阿曽選手と3度目の対戦をした事。
【第9回全世界大会】日本代表の阿曽選手との対戦は2勝1敗。
自身、2連覇の掛かる大会でもあった事。
初めての選手宣誓を務めた。
宣誓中に少し噛んだ事。
その後の各大会での選手宣誓に関しては、これまでに10回は務めたと思う。
噛んだのは合計2回、記憶しているんだけど。
当時の全関東大会は一般選手権大会のみが行われていて、今現在の様に、少年部や中高生、壮年部の大会は同時には行われていなかった。
今日は簡単にこのくらいが限界。
昔の記憶を掘り起こして文章にするのは、それなりにエネルギーを要する物だから。
頃。
【2007千葉県空手道選手権大会】にて。
トーナメントの5試合を戦って、決勝戦で負けてしまったんだけど。
この当時、無差別の全日本大会、全日本ウエイト制大会、地方大会も含めて、彼ら4人全員と戦っていた。
当時、前年の全日本大会で一気に注目されていた若手の新人選手で、日本人選手の中では、実際に過去一番強かったかなと、振り返る事も出来る日本人選手の一人が原田選手。
田口支部長や、三茶の長嶺会長に見守って頂く中、決勝戦で対峙した原田選手には、上段膝蹴りで奥歯をへし折られた記憶がある。
前半で、気迫で自分のペースに飲み込んでしまおうと、大きな気合いを浴びせて突っ込み打ち合いながらも、中盤、更に不用意に彼の懐に入り込んだ末に、原田選手からの強烈なボディへのカウンターの下突きで、鳩尾を深く抉られて腹を効かされてからは、原田選手からの畳み掛ける怒涛の膝蹴りのラッシュを浴びて、終いには上段膝蹴りを貰い技有りを奪われた。
その後も、幾度も顎をカチ上げられたが、気を失う事はなく最後まで諦めずに戦い抜いた試合ではあった。
右から優勝の原田選手、準優勝は金久保、第3位は久芳選手、第4位の山本選手、敢闘賞の萩原選手。
彼ら4人の中で過去に負けたのは、この時の千葉県大会の決勝戦で戦った原田選手だけ。
山本選手とは、各大会の中で3回も戦った。
萩原選手とは【2003第11回全関東空手道選手権東大会】の準々決勝戦で。
久芳選手とは【2010茨城県空手道選手権大会】の決勝戦で。
セコンドには三茶の近藤先生と、後輩の網谷君が付いてくれた。
とにかく寒い時期で、底冷えする中での会場での試合だったと記憶している。
3試合目となった準々決勝戦では、バッティングというより、相手選手の歯が顔面に当たり、右の眉付近から流血したのを思い出した。
【ザクッ】という音が聞こえた瞬間、顔面を滴り落ちる生暖かい鮮血が流れ出たのを感じつつも意に留めないまま、そのまま更に激しく打ち合う中、主審に試合を止められて更にドクターが入り、試合を中断された。
眉付近の傷の止血をして、3試合の間を挟み【残り時間45秒】から、試合を再開した記憶がある。
50人近くがエントリーしていた、大きなトーナメントだったはず。
この当時の千葉県大会は、無差別の全日本大会、全日本ウエイト制大会、全関東大会(今でいう東日本大会)の次に位置する、権威のある大会として知られていたと思う。
大会後の帰路では、セコンドの網谷君と一緒に、近藤先輩の車で自宅最寄駅まで送って貰った。
過去の写真と何よりも、数え切れないワールド空手の山が出てきたから。
本当に懐かしい。
二十数年間分の全てのワールド空手は、今回とても捨てられなかったから全て残してある。
先日、断捨離をしようと、自宅の大掃除をしていて、押し入れの中から出てきた数々のアルバムの中に…
これは埼玉県にある、西川口駅沿いの商店街で行われた夏の演武会の時の物。
まさかの、いわゆる少年部時代の写真が…
小学6年生の頃だと思う。
今から33年ほど前の物になる。
当時の師範や、少年部を教えて下さっていた先輩方の写真を含め、他にもたくさんの写真が出てきた。
全てが鮮明に記憶に残っている。
この当時の極真空手経験もあり、後々18歳の頃に、いよいよ改めて本格的に極真空手をやろうと決意するに至る。
午前中は、病院2箇所へ治療に。
2週間ぶりに、両膝にヒアルロン酸注射を。
打った瞬間から、凄い違いを実感しつつ。
滑らかさが増して、ギスギスした痛みが急に消える。
忙しかったり、タイミングを逃すと、たまに空いてしまうんだけど、2度目の膝の手術以降は、かれこれ7年くらいは、出来るだけ毎週欠かさずに、ヒアルロン酸注射を打つ様にしている。
25歳の頃、膝の半月板を摘出手術をした後に、2度目の手術となった38歳の頃には、それまで◯膝の半月板が無い状態で、長年を現役選手としての稽古とトレーニングで酷使してきた為、◯大腿骨、◯脛の骨が上下ともに状態が痛み過ぎて壊死していると、MRI検査での診断結果を伝えられた。
医師からは、既に70代後半の老人くらいに、◯脚の上下の骨が壊死して摩耗していると言われた。
筋肉と筋力で支えているだけだから、人工プレートを入れる手術をするかを聞かれたが、それをすると、一ヶ月間は動けずにベッドに寝たままの入院で、リハビリには半年以上は掛かり、その後の運動は、ゲートボールくらいしか出来なくなると外科の医師に言われて、失笑してしまった記憶がある。
【38歳にして、俺はお爺ちゃんかよ…ゲートボール?】って、思い、痛みと付き合って行きながらでも、全然構わないから、内視鏡手術で取り敢えず、綺麗に整えるだけで大丈夫だとして、2度目の手術をした記憶があるが。
【今後は、サンドバッグも蹴れなくなり、ゲートボールは流石にないべ…】と、四十路を前に選択を迫られた過去がある。
あの時、人工プレートを入れる手術をしていたら、今頃、何して生きてたんだろうか。
それより以前に死に掛けた事のある、31歳の頃の度重なる、カテーテル手術の時には、【空手なんて一生涯、今後は無理ですよ、一生薬漬けの生活にはなります】と、医師から言われた事もあって、今に至る訳だから、運と自分の意思だけで継続してきた事実はあるから、結局、何事も自分自身が決めて行動する物でしかないから、当時、2回も命を救って下さった主治医の先生からは、【死ぬかも知れませんが、まあ、自己責任という事で】と呆れられてはいたが、それ以降に試合をした全日本大会のDVDを見てくれたり、驚きながらも笑顔で応援もしてくれた。(復帰後の第40回全日本大会では、ロシア王者のイゴール・ティトゥコフ選手と再延長まで戦い、最初の延長戦で、肋骨を2本折られたまま最後まで戦い抜いた試合だった)
実際には言っても聞かないから、主治医の先生も忙しくて相手にしていなかっただけなのかもだけど。
俺は昔から、お医者さんの言う事をきちんと守った試しが無い。
23歳の時には左拳が折れて、長いボルトを2本入れる手術をした翌日には、ジムに行き、左腕を頭より高く持ち上げながら、反対側の腕を念入りにウエイトトレーニングしていた。(腕を下げると血液が下り物凄い激痛だった為、心臓より上に上げていなければ、とても耐えられない痛みだった為)
腕とは関係の無い為、レッグプレスや、スクワットは通常通りに当然行っていた。
結局、ボルトを入れたまま、片腕をギプスで固めたまま日が経つ毎に、バチバチにサンドバッグは叩くわ、組手はするわで、本来であれば3、4週間で抜くはずのボルトは、幾らレントゲンを撮っても、なかなか骨が綺麗に繋がらずに、実際に2本のボルトを抜いたのは、それから4ヶ月後ではあった。(結局、どこの筋力も衰えてもいなかったし、折れた左拳の骨は、それまでよりも一回り太さを増していた)
この手術をした時には、黒澤先生からは本当に沢山のアドバイスと指導をして頂いた。(大きな大会への出場は、約1年間を見送った)
怪我をしてきた数日後に、めっちゃ叱られるのを覚悟して緊張しながらも道場稽古に行き、黒澤先生に会った時には、かなり意外にも満面の笑顔を見せて下さり、その怪我の経緯を事細かく黒澤先生からは聞かれた。
興味津々に本当に細かく聞いて下さり、相槌を入れながら笑って下さった。
この頃には、先生の優しい部分をよく知り、だけども日頃から神様の様に崇拝していた為、常に緊張はしながらも稽古に行けば、先生からは常に可愛がられていた。
ただ、そうは言っても、めっちゃ厳しい先生ではあり、稽古の時にはその場にいる誰もが凍り付く様な緊張感を感じ、言葉では簡単に表せられない威厳を放たれていたのが黒澤浩樹先生だった。
【極真史上最強の空手家】【格闘機械・ファイティングマシン】と言われた、偉大な格闘家であり、最後まで壮絶な生き方を全うされた師であり、本当に物凄くカッコよくて、自分自身の人生を大きく左右する程に影響を受けたのも事実だと思う。
黒澤先生からは、本当に多くの貴重な財産というか、人生での自分自身の在り方を教えて頂いたと、年齢を重ねる毎に、日が経つ毎に、その事の重みと有り難さを染み染みと理解する事が出来る。
先生は、2017年3月25日に亡くなられたが、黒澤先生と出会った19歳の頃から、今も自分自身の心の中には常に黒澤先生がいるし、これからも本当に変わらないと思う。
やれるうちは、試合場でまだまだ戦う事を考えて毎日を生きている。
何か無いうちは、やれる限りは50歳までは絶対に一般選手権でやる。
金久保典幸
2021/8/10
国際空手道連盟 極真会館 松井章奎館長から、永吉美優さんへと授与された巨大なトロフィー…
これは、松井館長が優勝された【第18回全日本空手道選手権大会・無差別級優勝】のトロフィーをリペアして頂き、美優さんの為に【2019世界女子空手道選手権大会・無差別級優勝】の記念品として、更に新しいプレートが付けられた、松井館長御自身のトロフィーを頂いた永吉美優さん。
驚くべき出来事で、【第18回全日本空手道選手権大会】から、今月末2020年11月29日(日)に開催される【第52回全日本空手道選手権大会】までの【極真会館の34年間の歴史】の詰まったトロフィーともなり、この様な事は後にも先にも無いはずで。
永吉美優さんにだからこそ、サプライズとして、松井館長が準備して下さった物であったのだと感じる。
これこそ更なる、極真会館の歴史に残る出来事であり。
会場中の極真関係者からは、響めきが起こっていた。
美優さんの成し遂げた、前人未踏の歴史的快挙達成の事実だからこそと感じる。
【極真会館2019世界女子空手道選手権大会・無差別級 永吉美優 優勝祝賀会】
パレスホテル立川・ローズルーム
2020/10/24
本当に貴重な写真だ。
【2019世界女子空手道選手権大会 永吉美優 優勝祝賀会】
パレスホテル立川・ローズルームにて
2020/10/24